うこそ、私の心の履歴書へ


                         初筆 1996-07-21


                           加筆 2020-1月

                           加筆 2021-8月

          

           
   「   終 着 駅   」
                                             



   キャッチコピーの“何もない心の贅沢”とは私が40年近く探し続けていた私の人
生の価値観

  ・幸福感の思いを込めた言葉なのです。

  私が生まれたのは神奈川県の茅ヶ崎です。しかし、その頃の記憶は全く有りません。

  2歳の時に現在、実家の有る大宮(現さいたま市)に移り住み、実際に物心が付き思春期を

  過ごしたのは大宮です。

  かって、我が家のすぐ側に進駐軍を相手にしたダンスホールが有ったのですが、進駐軍の

  男性と日本人の派手に着飾った女性とか楽しげ踊り、戯れる姿を意味も分からず、近所の

  ちびっ子仲間と塀をよじ登り、窓越しに良く見ていたものです。

  時には、怪しげに楽しんでいる米兵に見つかり、hey boy come on!!と言ってポケットから

  ガムやチョコレートを貰いはしゃいでいた自分を今では苦々しく思い出します。

  そのダンスホールが毎日閉店する時に決まって流れる曲が蛍の光で、貧しく小さな我が家の

  消灯時間でも有りました。

  そのような事も有り、今でも蛍の光は特別な思いがあります。当時の貧しくせつない思いが

  蘇ります。

  そのころ、私の唯一の楽しみは、母によく連れられて銀座のデパートへ行くことでした。

  勿論、私の楽しみはデパートの食堂での食事です。

  初めて食べたハンバーグの味は今でも舌に鮮明に残っています。

  母は大正12年、生まれも育ちも日本橋のシャキシャキの江戸っ子で、大宮育ちの私には

  母が何かうらやましく思う感情を覚えました。そんな母も2003年12月に他界しました。

  既に他界している父も目黒で、両親そろってシャキシャキの江戸っ子なのです。

  今にして思えば、そのことが私の心の故郷探しの始まり、そして旅好きにしたのかも知れ

  ません。年を重ね、社会人となり2人の子を授かり、小さな幸福を謳歌していたのですが、

  何故かふと、自分の心の故郷はどこだろうと無性に自問自答するようになったのです。

  残念ながら長年住んだ大宮には私のイメージしている故郷像は有りませんでした。かと

  言って両親のような粋な江戸っ子でも有りませんので、心の故郷を持たない流浪な民になって

  人生を終えてしまうのでは無いかとこうして、私の心の故郷を探す旅が始まったのです。

  最初に感動した旅は津軽でした。初めて行った時期は8月の初旬、そうそう、ねぶた祭りの

  頃でした。青森のねぶたは勇壮でウキウキしてきますが、弘前のねぶたは、どことなく、

  わびさびの情が入った祭りのような気がします。

  旅人の心情をセンチメンタルと言おうか、ノスタルジアのようなものを感じ私は好きです。

  そのような津軽には、1972年頃から約5年間毎年のように十三湖周辺に足を運び

  ました。  

  “津軽じょんがら節”や“砂の器”に感化されたのしか知れませんが、2度目の冬に

  訪れた津軽、十三湖周辺の情景は感動的でした。

  地を這うようように流れる低い雲、荒れ狂う日本海、そしてモノトーンの世界に招き入れ、

  包み込んでしまう吹雪、まっすぐと延びる道には、全く人気が無く、車すら何時間もすれ

  違うことがありませんでした。

  唯一、人の気配を感じられるのは電信柱だけ、吹雪の中うっすらと映し出され、この電線

  の先には人が住んでいるだろうと、ちょっぴり恐怖心と寂しさが入り交じった自分を励まし

  たものです。風土色の強い厳しい冬と、そこに住む心暖かな人々、夢中で何度もシャッター

  を切ったものです。

  毎日新聞社にはかってカメラ毎日と言う月刊の写真誌が有ったのですが、その中にアルバム

  と言う組写真を紹介するコーナーが有り、津軽の写真を何回か応募しました。

  惜しくも次席で津軽の写真は掲載はされませんでした。それでも、カメラ毎日のアルバムでは

  新宿の超高層をベースにしたモンタージュ写真が掲載されたものです。

  その当時は自分の内面を表現出来るのは写真ではないかと思い、一時は、フリーのフォトジャー

  ナリストになろうかと真剣に考えた時期も有りました。

  おそらく、私の性格からして長女の由美子や息子の航が生まれていなければ、食べて行けない

  のを覚悟でその道に足を突っ込んだ事と思います。

  私の精神構造は情熱と安定OR安全とがいつも綱引きをして葛藤しているようです。

  そうした中、5度目の冬に津軽に訪れた時、猛吹雪のさなか愛用していたニコンFフォトミック

  を転んだ弾みで2台とも凍りつした地面に叩きつけるように落としてしまい壊してしまった

  のです。1台はどうにか修理でき現在も愛用していますが、もう1台は修理不能となってし

  まい大変なショックでした。

  それを境に津軽とも、写真とも何となく遠ざかってしまった気がします。

  ここ丸沼高原に私が移り住んだのは丸沼の四季折々の美しさに魅せられ、その周辺の大自然は

  伴侶と初めて出会った時と同じような直感を感じたからです。

  新しい何かの始まりを予感する・・・

  25年間のホテルでの仕事は私の天性と思えるぐらい楽しく充実していました。

  また、現在の職業に大変役立っています。1995年に退職を決意しました。

  私にとって都会生活は何か馴染まなかったのです。

  俗に言う、ネオンの灯りより星の瞬きが・・・  

  カラオケより小鳥の囀りが・・・本当に私には快く感じられるのです。

  根からのカントリーマンなのかも知れません。

  友達と楽しく騒いだり飲んだりしても、いつも、醒めたもう一人の自分が見え隠れするのです。

  そのもう一人の自分が求めているのは、便利さや豊かな都会生活ではなく、心の安らぎで有るこ

  とが次第に分かってきたのです。

  そして、そんな心を静かに着実に満たし、私に与えてくれたのが大自然でした。

  風光明媚な自然の美しさは何万年の時を経て作り出されたもの。

  全力出走で走った先には、いったい何が有るのだろうか??  走り続ける足を止め、振り返った

  後には何が残るのだろうか??

  私にはその時、思い浮かんだのが人生に疲れ切った自分、虚構の世界に生きている自分。

  人の幸福感は、人によって感じるものが違うて当然だと思います。

  私にとっての虚構の世界とは自分自身を騙し続ける人生。

  夢を実現しようとする人、夢は夢としてそれを現実のパワーにしようとする人、

  自分にとってどちらが幸福感を感じられるかが問題で有って、今の世の中では

  自分に忠実に生きようとすることが夢なのかも知れません。

  私のフィーリングには自然との波長が一番合うような気がしています。

  お金では買えない贅沢、感じる人の観念の世界のみに宿る贅沢。

  それは美しくも厳しい大自然、そして、そこに生きる野生動物や植物。

  それらの環境の中で、一人の人間として、また、一住民として生きることが私の終着駅。

  勿論、家内と一緒です。

  私の我が儘をいつも受け入れてくれる家内には、心の中ではいつも感謝しています。



    最後までお付き合い頂き有り難うございます、私はこんな人間です。

    このページは非公開としていましたが、 2019年に古希を迎えそろそろ

    終幕が見え隠れして来ましたので自分史として表することにしました。

    そして大好きなこの仕事を生涯現役で走りぬくことが私の最後の夢です。



       
     
             
       
 
                           加筆 2021-8月
                          喜多村 裕明






尾瀬の草根紅葉






早春の尾瀬






冬のテン




私に懐いた女狐の小春





                   

                           
                   



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